生活と人生と制作のバランスを保つのはむずかしい。Covid-19の感染拡大を防ぐため、たびたび発出される緊急事態宣言。部屋に閉じこもることを強いられるカタストロフのなかで、日記が文学作品と同等の重みを持つものとして発表されるようになりました。私自身も、山びこ学校で教えられていた「生活綴方」に呼応しつつ、あちらこちらに向けられた関心や、制作にまつわるーーときに矛盾した内的論理を持つーー身体を日記に書き残しています。「文章」という矛盾した記述さえも可能な、荒唐無稽になることも厭わない形式に対して、生活をそのまま綴ったかのようなリアリティをあたえるのが「日記」という形式です。
一方で、小説家や芸術家は、日記として発表したとしても興味深く受容されたであろう関心を、作家自身の奥深くに沈め、煮詰まったものをあらためてサルベージし、作品という形式に凝集させる努力を怠りませんでした。私が日記を書いているときに飢餓感を感じたのも、この努力に対してです。日記を作品として発表するのであれば、発想を極限まで煮詰め、外から見えるモノとしてアウトプットし、それを編集するというプロセスを経由するべきだという想いがありました。
ジャグリング、散文、旅、海との絆、新薬の開発、バレエ。各ライフワークに基づいて構築された論理の表出を論文でも批評でも評伝でも小説でもない仕方で綴ったのが『潜在性のけもの』という書籍です。
アクチュアリティに焦がれるもリアルには表出せず、混沌の濁流の中にいて、制作する(あるいは鑑賞する)身体は、必ずしもヒトのかたちを維持しない。
――〈私ら〉は潜在性のけものだ。
価格:1300円