2023年は、何度も繰り返されてきた宗教・民族の対立において、歴史に色濃く刻まれる一年だった。外国での紛争や戦争が、インターネットを通じてより身近に感じることができるようになったと同時に、絶望的なイメージを前になぜそうなってしまったのかと落胆することで、かえって遠いものになったという感覚にもなった。

紛争によって積み上がった瓦礫を見るといつも、ヴァルター・ベンヤミンが書いた文章を思い出す。

「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれており、その天使は、彼がじっと見つめているものから、今まさに遠ざかろうとしているかのように見える。彼の目は大きく見開かれており、口はひらいて、翼はひろげられている。歴史の天使はこのように見えるにちがいない。彼はその顔を過去に向けている。われわれは出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局を見る。その破局は、次から次へと絶え間なく瓦礫を積み重ね、それらの瓦礫を彼の足元に投げる。彼はおそらくそこにしばしとどまり、死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものをつなぎ合わせたいと思っているのだろう。しかし、嵐が楽園のほうから吹きつけ、それが彼の翼にからまっている。そして、そのあまりの強さに、天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐は天使を、彼が背中を向けている未来のほうへと、とどめることができないままに押しやってしまう。そのあいだにも、天使の前の瓦礫の山は天に届くばかりに大きくなっている。われわれが進歩と呼んでいるものは、この嵐なのである。

ベンヤミン『歴史の概念について』(山口裕之訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出書房新社)

進歩、あるいは資本主義、グローバリズム、効率化、コスパタイパ、ジェントリフィケーション、安全安心… ベンヤミンが嵐に例えた「進歩」は、本来救済されるべき過去を打ち捨てられたままにする。あるいは、今やその過去がなかったことにすらしてしまう。いま(に始まったことではないが)世界各地でおこなわれているのは、そういうことだ。もちろん、このこの国においてもだ。

『海峡のまちのハリル』の題材である「エブル」もまた、進歩によって忘れ去られていたかもしれなかった。

エブルは、中国で製紙法とともに生まれ、トルコ系民族のひとつであるウズベク人によってイスタンブルに持ち込まれた。イスタンブル、昔の名前でいうとコンスタンティノープルは文字通り東西の要衝で、世界の首都。ウズベク人たちは海峡のまちで、自分たちのなりわいとしてエブルを継承していき、オスマン帝国の伝統工芸として発展していった。しかし、およそ100年前、帝国の末期、あたらしいトルコが生まれようとしている時代に、エブルは古いものとして忘れ去られようとしていた。本書の主人公であるハリルはエブルの技術を継承してきたウズベク人一家の少年で、日本から来た少年たつきとの出会いから、エブルの技術を継ぐことを決める。

舞台となった100年前のイスタンブルには、トルコ人、ウズベク人のほか、アルメニア人、ギリシャ人、イタリア人ほか数え切れないほどたくさんの人々がともに暮らしていた。オスマン帝国はイスラム教スンナ派を国教としながらも異教に対して寛容で、キリスト教やユダヤ教ほか多くの宗教を奉じる人々がいた。

『海峡のまちのハリル』は(わかるように明示されているわけではないのだが)いろいろなひとたちが緩やかにつながりながら生きていた時代を描いている。時間軸を超えてシルクロードの豊穣を知り尽くす小林豊さんと、現代のトルコをからだで知る末沢寧史さんが、言わば歴史の天使として、瓦礫をつなぎ合わせてつくったのが本書だ。


12月15日により、本屋・生活綴方ギャラリーにて『海峡のまちのハリル』原画展を開催します。

開催概要

  • 会期  2023年12月15日(金)〜1月8日(月)
  • 営業  金・土・日・月 12:00 – 19:00 (火水木・定休)
  • 会場  本屋・生活綴方/横浜市港北区菊名1−7−8 東急東横線・妙蓮寺駅徒歩2分
  • 入場料 無料

終了しました:トークイベント『海峡のまちのハリル』と絵本作家・小林豊さんの仕事(話し手・小林豊、聞き手・矢萩多聞)

本展の開催を記念して、『海峡のまちのハリル』の絵をてがけた小林豊さんによるトークイベントと、装丁家で本とこラジオ司会者の矢萩多聞さんを聞き手に、以下の日程で開催します。

  • 会期  2023年12月19日(火)開場 19:00 開始19:30(21:00終了予定)
  • 会場  本屋・生活綴方/横浜市港北区菊名1−7−8 東急東横線・妙蓮寺駅徒歩2分
  • 入場料 現地参加 1600円/オンライン1300円(税抜)
  • 定員  現地参加15名 / オンライン100名
  • お申し込み方法 以下ボタンからウェブストアにて決済可能です。ウェブストアでの決済が難しい場合は、お問合せフォームで「お名前・電話番号・現地参加orオンライン参加」をご連絡ください。お客様の状況に合わせて決済方法をお伝えします。

最初の30-40分は矢萩多聞さんの「本とこラジオ」の公開収録を兼ねますので、音声にて後日配信されます。チケットをお求めの方は、本とこラジオ収録後の1時間程度のトークを、現地または映像(オンライン)にてお楽しみいただけます。

オンラインライブ配信について

  • オンライン配信はvimeo(ヴィメオ)を使用します。配信日までに、オンライン配信チケットをご購入のミーティングIDおよびパスワードを、ご購入者のメールアドレス宛に送付いたします。

見逃し配信

  • チケットをご購入のすべての方は一ヶ月間の見逃し配信を閲覧できます。後日配信用のURLを送付いたします。

登壇者プロフィール

小林豊 1946年、東京生まれ。立教大学社会学部卒業後、イギリス留学中に画家を目指す。1970年代初めから80年代初めにかけて中東やアジア諸国をたびたび訪れ、その折の体験が作品制作の大きなテーマとなっている。 主な作品に、『せかいいちうつくしいぼくの村』、『ぼくの村にサーカスがきた』、『えほん北緯36度線』、『えほん 東京』などがある。

矢萩多聞 画家・装丁家。1980年横浜生まれ。9歳から毎年インド・ネパールを旅し、中学1年で学校を辞め、ペン画を描きはじめる。95年から南インドと日本を半年ごとに往復、横浜や東京で展覧会を開催。2002年、『インド・まるごと多聞典』(春風社)の出版をきっかけにして本のデザインにかかわるようになり、これまでに600冊を超える本を手がける。2012年、京都に移住。出版レーベルAmbooksや、WEBラジオ「本とこラジオ」など、本とその周辺をゆかいにするべく活動中。著書に『美しいってなんだろう?』(世界思想社)、『本とはたらく』(河出書房新社)、『本の縁側』(春風社)、『たもんのインドだもん』(ミシマ社)、 共著に『タラブックス』(玄光社)、『本を贈る』(三輪舎)がある。